権田猛資の台湾ノート

台湾生活の中で見たこと、学んだこと、考えたことを記録していきます。

日本郵船歴史博物館企画展「就航90周年記念 客船浅間丸〜サンフランシスコ航路を行く〜」を見学。忘れてはならない海没した戦没者の存在

横浜市内にある日本郵船歴史博物館では、1885(明治18)年に誕生し、日本を世界第3位の海運大国へと導いた「日本郵船」の歩みを紹介しており、日本の海運がいかに発展してきたかを学ぶことができます。

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日本郵船歴史博物館

戦時中に日本郵船が果たした役割についても紹介されています。

戦時中は、軍艦にとどまらず、輸送船の不足を補うため多くの民間船舶が徴用されました。日本郵船の多くの船舶も徴用されています。日本の海運業を担い、その発展に大いに貢献してきた船舶が戦争に借り出されていたわけです。

 

大戦末期、日本は比島決戦を企図し、兵員や物資などをフィリピンに集中させることを試みました。そのため、台湾とフィリピンの間に横たわるバシー海峡は死活的重要な海上輸送路となりました。

多くの輸送船はバシー海峡の航行を余儀なくされましたが、待ち構える米国の潜水艦による魚雷攻撃を前に太刀打ちできず、次々と撃沈させられました。

日本郵船の船舶もまたバシー海峡で米国の攻撃の的となり、撃沈されています。

 

「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、「バシー海峡」(北緯18度00分、東経118度00分から北緯23度00分、東経123度00分で囲まれた海域)では計78隻の商船が撃沈されたと言います。

 

現在、日本郵船歴史博物館では企画展「就航90周年記念 客船浅間丸〜サンフランシスコ航路を行く〜」が開催中です。

1929(昭和4)年に竣工し、「太平洋の女王」とも称された豪華客船「浅間丸」について、船長の遺品や供された食事のメニューなど関係するコレクションが見学できるほか、船内の様子や初航海から沈没に至る軌跡を学ぶことができます。

浅間丸は1941(昭和16)年11月に海軍に徴用されました。そして、外交官や在留邦人らと敵性国人の交換船として活躍するなどしました。

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企画展は2020年1月13日まで開催

かつて台湾少年工として日本本土に渡った東俊賢さんは、台湾・基隆から浅間丸に乗船した経験があります。

東さんによると、船内部に入ることは許されなかったものの、荷物置き場として使用されていたプールやテニスコートが印象的で、子供ながらに船の大きさ荘厳さに驚いたそうです。乗船中は、毎日数回、緊急時の避難訓練を繰り返し、救命ボートの乗り方や救命胴衣の着用方法を教わったそうです。また、浅間丸は、航行中、「どんな荒波にもビクともしない立派な船」だったようです。

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東俊賢さん(2019年11月28日撮影)

しかし、そんな立派な浅間丸も1944(昭和19)年11月1日にバシー海峡を航行中、米軍による魚雷攻撃により、第一撃からわずか10分足らずで海没しました。甲板に設置されていた筏にしがみつき、護衛艦に救助された乗組員もいたものの、この時128名が犠牲になりました。

 

先の大戦では海軍軍人にとどまらず、多くの船舶会社の船員も海上で犠牲になっています。日本郵船では計5312名が戦争によって命を落としました。そして日本郵船は戦時中、戦没した従業員の慰霊祭を4度に渡り執り行っています。

 

現在、公益財団法人日本殉職船員顕彰会は毎年5月、戦没・殉職船員追悼式を斎行しているそうです。

 

「輸送船の墓場」として恐れられたバシー海峡をはじめ、海上で犠牲になった戦没者の人数などは戦後74年がたった今も正確にはわかりません。戦後75周年を前に、今一度、海で犠牲になった多くの戦没者に想いを致すことができればと一日本人として思います。