台湾人元日本兵・蕭錦文さんのインパール作戦の証言
10月20日、かつてインパール作戦に参加した経験を持ち、戦後の台湾では二二八事件を目撃して自らも受難者である蕭錦文(しょう・きんぶん)さんを訪ねました。
死の淵を幾度と見た蕭さんがいつも声を大にして訴えていることは、戦争の「あさましさ」であり、この日も繰り返し「戦争では何も解決しない」、「戦争は愚かである」ということを実体験に基づいてお話しいただきました。
戦時中は一兵卒であり、インパール作戦について評価したり、意見したりする立場ではないとしつつも、今は当時の体験を伝えることが「責任」「義務」であり、今後も自らが知ることを語り継いでいきたいと力強くおっしゃっていました。
過去に、一般財団法人自由アジア協会に蕭さんからうかがった戦争体験、二二八事件について寄稿した文章を転載します。
台湾籍元日本兵の戦争体験(2018年5月13日、一般財団法人自由アジア協会寄稿)
青空が広がり心地よい風が気持ちいい5月12日。私は日頃からお世話になっている台湾在住ライターの方とともに桃園市の養護老人ホームを訪ねた。目的は台湾籍元日本兵のおじいさんに戦争体験のお話をうかがうためである。
最寄りの桃園MRTの駅からタクシーに乗り14時前に到着すると、入り口ではそこで暮らす老人たちが台湾語の歌をカラオケで楽しんでいた。そして、その中心でマイクを握っていたのが、今回お話をうかがう蕭錦文さんである。
蕭さんは、1926(大正15)年4月8日、日本統治下の台湾で生まれ、先月92歳の誕生日を迎えたばかりだ。戦時中には日本帝国陸軍の兵士としてインパール作戦に参加した経験を持ち、また戦後に台湾へ戻った後には新聞社記者として二二八事件に遭遇し自身も拘束され、拷問を受けている。まさに九死に一生を何度も得ており、常人には想像もできない波乱万丈の人生である。
車椅子の蕭さんに声をかけると、優しい笑顔と力強い握手で、「ようこそ、遠いところまで」と暖かく迎えてくれた。私にとっては約2年ぶりの再会で、お元気かどうか少し心配していたが、足腰こそよくないものの、血色の良い肌ツヤと力強い声に安心した。その後、蕭さんの隣に付き添っていた娘の兆怜さんとも挨拶を済ませ、私たちは近くのファミリーマートでお話しすることになった。
蕭さんはまず、自ら軍に志願した話からゆっくりと語り始めた。幼少期から苗栗の祖母の元で育てられた蕭さんは、16歳の時、祖母には内緒で陸軍に志願し、高倍率のなか採用されたと誇らしげに話す。自ら志願した理由について、当時は社会的に「愛國」のブームが蔓延しており、自身も10代で血気盛んだった、と振り返る。
入隊後の1942年、陥落直後のシンガポールに派遣され、約3ヶ月の軍事訓練を受けた。その後、ビルマ方面軍司令部への配属が決まった。ビルマの港に到着すると、すぐに空襲に遭った。これが蕭さんにとっては初めての空襲で、「ここは戦場である」ということを初めて実感したという。
そして、疫病や餓死が原因で多くの戦死者を出した、無謀だったとも言われる「インパール作戦」について、悲惨な実体験を語り始めた。蕭さんは私をにらみつけるように眼光鋭く「あれはやるべき作戦じゃなかった」と断言した。
当時、空軍による支援がない状態であり、作戦の実態は肉弾で敵軍に突入することだけだった。したがって、蕭さん自身はその時にすでに勝てるわけがないと思っていたという。敵は破竹の勢いで機銃掃射の攻撃を続け、自分たちは防戦一方だった。昼間は敵に見つかるため、隠れ続けて動けず、夜中のみ行動していた。補給線は絶たれているので当然、食料も水もない。しかし、逃げることだけで精一杯だったため、食べるどころではなかった。
そのような無謀な作戦に従軍しながら上層部へのいらだちの感情は生まれなかったのか聞いてみた。するとさっきまで感情的に語っていた蕭さんは落ち着いた口調で「牟田口司令官をはじめ、上層部は私欲のためではなく、國のために作戦を決行しており、無理を押し切っての判断だったのだろう」とやるせない様子で話した。
1944年6月、蕭さんはビルマから撤退中、牛が踏んでできた水溜りの雨水を飲んで赤痢とマラリアに罹った。一日に62回も下痢をした。前線の野戦病院で診察後、鉄道でバンコクの陸軍病院に後送されたが、病床もなく、さらにプノンペンの兵団病院に後送された。そしてプノンペンの病床で天皇陛下の玉音放送を聴いた。
私は玉音放送を聴きながら何を考えたのかを聞いてみた。蕭さんは三つのことを考えたという。一つは、残念で悔しいということ。一つは、これで戦争が終わったということ。そして、もう一つが、願わくばこれ以降、戦争がないようにということだった。
今回は蕭さんの戦争体験を中心に約2時間半にわたってお話をうかがうことができた。記憶も鮮明で、話も力強く、92歳とは到底思えない若々しさがあるが、歳のせいか、同じ話を何度も繰り返してしまうことが多々あった。
「今になって考えてみたら、戦争は“馬鹿らしい”。本当に“馬鹿らしい”。」
「人を殺し、物を壊し、本当に“馬鹿らしい”。勝っても負けても戦争は意味がない。本当に“馬鹿らしい”。」
戦争体験者だからこそ、そして平和な時代も享受してきたからこそ知っている戦争の「馬鹿らしさ」。繰り返し発せられる蕭さんの言葉から「平和の尊さ」を痛感するとともに、戦争体験者の生の言葉をもっと聞き、少しでも戦争の悲惨さに想像を巡らすことのできる人間にならなければと決意を固くしたインタビューとなった。
最後に、長生きで元気に生きるにはどうすればいいか聞いてみた。
「善意の道を信じて歩くこと。求めようと思っても人間は求められない。自然のままに身を任すことです」。
笑いながらそう話す蕭さんと握手を交わし、再会を約束して、老人ホームを後にした。
(追記:本文中、「プノンペンの病床で天皇陛下の玉音放送を聴いた」とありますが、これは間違いです。本稿掲載後に蕭さんに取材を重ね、玉音放送の時にはすでに快復し、病院内にはいたものの、病床ではなかったとのことです。謹んでお詫び申し上げます。)
【関連文章】
平和を願う!自らの戦争体験を語り継ぐ台湾人老爺・蕭錦文さん(2019年4月10日、hibiki Culture Lab)