2019年バシー海峡戦没者慰霊祭を終えて
11月17日、台湾南端のバシー海峡を望む潮音寺にて、バシー海峡戦没者慰霊祭が斎行されました。
戦後70周年の2015年より一年に一度行なわれている本慰霊祭は、今年で5回目を数えます。
慰霊祭前日の16日、高雄国賓大飯店にて事前懇親会が行われ、ご遺族を中心に60名が参加しました。慰霊祭に参列する理由や思いなど自己紹介もしていただき、参加者同士の交流を深め、終始和やかな雰囲気でした。
慰霊祭当日の17日は、汗が吹き出す暑さでしたが、快晴に恵まれ、ご遺族を中心に約120名が潮音寺に集いました。
今年は公益財団法人水交会の赤星慶治・理事長(第29代海上幕僚長)より弔電を頂戴しました。
昭和27年に発足した水交会は、海上自衛隊を退官した方々を中心にした組織で、海上安全保障に関する調査研究や政策提言、海上自衛隊が行う諸活動への協力、先人の慰霊顕彰を主な活動としています。
水交会によると、海上自衛隊は、バシー海峡をはじめ先の大戦で犠牲者を出した海域では必ず洋上慰霊祭を執り行なっており、練習艦隊の航海時には水交会が洋上慰霊祭で用いる花を送るなど協力されているとのことです。
潮音寺での慰霊祭後はバシー海峡を望む海岸で白菊を献花。また過去4回と異なり、今年は鵝鑾鼻(ガランビ)岬にある台湾最南端の地を訪れました。台湾において、最もバシー海峡に近づくことのできる場所です。
慰霊祭後の夜は高雄国賓大飯店にてバシー海峡戦没者を偲ぶ夕べを開催しました。参列者の皆様に感想をうかがったほか、慰霊の場である潮音寺を日頃から守っていただき、本慰霊祭の共催団体でもある潮音寺管理委員会の鍾佐榮・委員長にご挨拶を頂戴しました。鍾さんからご子息の吳凌輝さんのご紹介もあり、今後も建立者の中嶋秀次さんの遺志を受け継ぎ、末長く潮音寺を守っていく決意が語られました。
私にとって今回は5回目の慰霊祭でした。私はバシー海峡戦没者の遺族ではないためご遺族の方々のお気持ちはわかりません。
しかし、慰霊祭を通じてご遺族の皆様にお話をうかがう中で、少しずつ想像をめぐらすことができるようにようやくなってきました。
戦死されたご家族のお骨がなく、遺品もなく、乗船していた船の名称や戦死した場所もはっきりとわからない、また父親の記憶がなかったり、顔を見たことがなかったりすることがご遺族にとって一体どういうことであるのか。
父親をバシー海峡で失ったご遺族の原田一郎さん・中原公子さんご兄妹は、潮音寺で手を合わせ、バシーの海に献花して「ほっとした」とおっしゃっていました。
来年2020年は戦後75周年の節目の年です。少なくとも10万人以上が命を落としたバシー海峡の悲劇の歴史を日本人は決して忘れてはならないと思います。
ご遺族の方々が一年に一度は手を合わすことのできる場として、またバシー海峡戦没者の存在を忘却せず、御霊に感謝と哀悼の誠を捧げて恒久平和を誓う場として、本慰霊祭を今後も粛々と続けていくことができればと、一慰霊祭実行委員として強く思っております。
芝山巌事件で犠牲になった教育者・関口長太郎先生の慰霊顕彰祭に参加して
11月3日に愛知県西尾市で執り行われた関口長太郎先生慰霊顕彰祭に参加させていただきました。
関口長太郎(せきぐち・ちょうたろう)は、愛知県西尾市出身で、西尾小学校の初代校長を務めた教育者です。
日本統治時代初期に台湾へ渡り、現地で日本語教育に従事しました。そして、1896(明治29)年元旦に日本人教育者6名と用務員1名が土匪によって惨殺された芝山巌事件の犠牲者の一人でもあります。
命を惜しまず、最後まで教育者として土匪の説得にあたった関口ら「六士先生」の犠牲的精神は、事件後、台湾で称えられ、芝山巌事件の地は教育の聖地となりました。身を殺して義を成し遂げた関口らの存在は、日本統治時代の学校教育の中で教えられたと話す日本語世代の方も多いです。
今回参加させていただいた慰霊顕彰祭は、地元有志の方々によって始められたもので、「関口先生の功績を忘れない」(主催者のお一人である磯貝暢宏さん)ために一年に一度、斎行されています。
当日は西尾小学校敷地内に建つ関口の顕彰碑前で神式の慰霊を行なった後、関口の墓石がある市内の盛巌寺にて追悼法要が行われました。
地元の方々を中心に50名近くが集い、関口先生の志に想像を巡らせて手を合わせました。
教育に命を捧げた郷土の誇るべき偉人・関口長太郎を忘れないように、地元の方々によって慰霊が続けられ、親族が絶えたお墓が今も守られていることを目の当たりにした慰霊祭でした。
【講演のお知らせ】台湾を学ぶ会「台湾少年工・東俊賢さんが語る戦争体験」(大阪・東京)の開催案内
9月に台北で開催され大盛況だった、台湾を学ぶ会「台湾少年工・東俊賢さんが語る戦争体験」が、来たる11月7日と9日に、大阪と東京で開催されます。
東俊賢さんは、戦時中に台湾少年工として渡日し、神奈川県追浜の海軍航空技術廠で特攻兵器「桜花」やロケット戦闘機「秋水」の製造に従事した経験をお持ちの方です。
9月の学ぶ会では、歴史的証言がいくつも飛び出し、大変有意義な学びの機会でした。
普段、東さんは台湾にお住いのため、日本で直接お話をうかがうことのできる大変貴重な機会だと思います。
東さんの証言を受けて、片倉さんの解説や補足もあるため、じっくり東さんが発する言葉の意味を考えることができると思います。
11月7日が大阪、11月9日が東京での開催です。この機会をお見逃しなく。
詳細やお申し込みは以下のURLからご覧ください。
【台湾を学ぶ会in大阪・心斎橋(11月7日)】
詳細・申込:https://kokucheese.com/event/index/583354/
【台湾を学ぶ会in東京・錦糸町(11月9日)】
詳細・申込:https://kokucheese.com/event/index/582012/
一味違う台湾旅の攻略本!片倉ご夫妻の新著『台湾 旅人地図帳−台湾在住作家が手がけた究極の散策ガイド−』を拝読して
片倉佳史さん(台湾在住作家)・真理さん(台湾在住ライター)ご夫妻が新著『台湾 旅人地図帳−台湾在住作家が手がけた究極の散策ガイド−』(ウェッジ)を10月18日に出版されました。
昨年4月には片倉真理さんの『台湾探見 Discover Taiwan−ちょっぴりディープに台湾(フォルモサ)体験』、今年3月には片倉佳史さんの『台北・歴史建築探訪 日本が遺した建築遺産を歩く』がそれぞれウェッジから出版され、今回の新著も台湾の美しい写真の数々が掲載されたオールカラーの一冊です。
新著は、地図と文章、写真で構成され、台北、台湾北部、中部、南部、東部、離島から計80の街を厳選し、各地の街の歴史や特色、旅のスポット、ご当地グルメなどを紹介しています。
また、これまでの書籍ではスポットライトが当たらなかった歴史的遺構や建造物、日台交流秘話の現場などがたっぷり取り上げられており、台湾旅初心者だけでなく、台湾旅の「リピーター」にとっても大満足まちがいなしです。
台湾を学ぶ面白さ、楽しさを大いに享受でき、台湾理解を深めることができる一冊です。
一方で多くの既存のガイドブックなどで紹介されている観光地や、お店やホテルなどの住所や営業時間といったデータについては記載されていません。
したがって、いわゆる「ガイドブック」とは性質が異なります。
本書で片倉ご夫妻は以下のように書かれています。
「ガイドブックの理想を突き詰めると、旅人から『発見』という愉しさを奪ってしまうのである」
これは、本書の執筆にあたり、ご夫妻が常に考え、苦悩された「問題」なのだと推察します。
「完璧」なガイドブックを作り上げることで、読者から旅の愉しさを奪わないように配慮された、旅人として、また台湾在住作家としての「美学」が存分に詰まった一冊だと思いました。
台湾在住取材歴20年以上の片倉ご夫妻のご著書に共通するのは、本を読んで満足するだけではなく、自分も現場に足を運び、さらに学びを深めていきたいという知的好奇心がくすぐられることです。
やはり、本書を読了した後も同じように、本書を手に旅に出かけたくなりました。個人的には本書でも一章分使って紹介されている離島(金門、馬祖、澎湖・馬公)に行きたくなりました。
本書を通じ、改めて台湾は多くの魅力が溢れ、追究・探索を続けたくなる土地だと再発見できました。
台湾人元日本兵・蕭錦文さんのインパール作戦の証言
10月20日、かつてインパール作戦に参加した経験を持ち、戦後の台湾では二二八事件を目撃して自らも受難者である蕭錦文(しょう・きんぶん)さんを訪ねました。
死の淵を幾度と見た蕭さんがいつも声を大にして訴えていることは、戦争の「あさましさ」であり、この日も繰り返し「戦争では何も解決しない」、「戦争は愚かである」ということを実体験に基づいてお話しいただきました。
戦時中は一兵卒であり、インパール作戦について評価したり、意見したりする立場ではないとしつつも、今は当時の体験を伝えることが「責任」「義務」であり、今後も自らが知ることを語り継いでいきたいと力強くおっしゃっていました。
過去に、一般財団法人自由アジア協会に蕭さんからうかがった戦争体験、二二八事件について寄稿した文章を転載します。
台湾籍元日本兵の戦争体験(2018年5月13日、一般財団法人自由アジア協会寄稿)
青空が広がり心地よい風が気持ちいい5月12日。私は日頃からお世話になっている台湾在住ライターの方とともに桃園市の養護老人ホームを訪ねた。目的は台湾籍元日本兵のおじいさんに戦争体験のお話をうかがうためである。
最寄りの桃園MRTの駅からタクシーに乗り14時前に到着すると、入り口ではそこで暮らす老人たちが台湾語の歌をカラオケで楽しんでいた。そして、その中心でマイクを握っていたのが、今回お話をうかがう蕭錦文さんである。
蕭さんは、1926(大正15)年4月8日、日本統治下の台湾で生まれ、先月92歳の誕生日を迎えたばかりだ。戦時中には日本帝国陸軍の兵士としてインパール作戦に参加した経験を持ち、また戦後に台湾へ戻った後には新聞社記者として二二八事件に遭遇し自身も拘束され、拷問を受けている。まさに九死に一生を何度も得ており、常人には想像もできない波乱万丈の人生である。
車椅子の蕭さんに声をかけると、優しい笑顔と力強い握手で、「ようこそ、遠いところまで」と暖かく迎えてくれた。私にとっては約2年ぶりの再会で、お元気かどうか少し心配していたが、足腰こそよくないものの、血色の良い肌ツヤと力強い声に安心した。その後、蕭さんの隣に付き添っていた娘の兆怜さんとも挨拶を済ませ、私たちは近くのファミリーマートでお話しすることになった。
蕭さんはまず、自ら軍に志願した話からゆっくりと語り始めた。幼少期から苗栗の祖母の元で育てられた蕭さんは、16歳の時、祖母には内緒で陸軍に志願し、高倍率のなか採用されたと誇らしげに話す。自ら志願した理由について、当時は社会的に「愛國」のブームが蔓延しており、自身も10代で血気盛んだった、と振り返る。
入隊後の1942年、陥落直後のシンガポールに派遣され、約3ヶ月の軍事訓練を受けた。その後、ビルマ方面軍司令部への配属が決まった。ビルマの港に到着すると、すぐに空襲に遭った。これが蕭さんにとっては初めての空襲で、「ここは戦場である」ということを初めて実感したという。
そして、疫病や餓死が原因で多くの戦死者を出した、無謀だったとも言われる「インパール作戦」について、悲惨な実体験を語り始めた。蕭さんは私をにらみつけるように眼光鋭く「あれはやるべき作戦じゃなかった」と断言した。
当時、空軍による支援がない状態であり、作戦の実態は肉弾で敵軍に突入することだけだった。したがって、蕭さん自身はその時にすでに勝てるわけがないと思っていたという。敵は破竹の勢いで機銃掃射の攻撃を続け、自分たちは防戦一方だった。昼間は敵に見つかるため、隠れ続けて動けず、夜中のみ行動していた。補給線は絶たれているので当然、食料も水もない。しかし、逃げることだけで精一杯だったため、食べるどころではなかった。
そのような無謀な作戦に従軍しながら上層部へのいらだちの感情は生まれなかったのか聞いてみた。するとさっきまで感情的に語っていた蕭さんは落ち着いた口調で「牟田口司令官をはじめ、上層部は私欲のためではなく、國のために作戦を決行しており、無理を押し切っての判断だったのだろう」とやるせない様子で話した。
1944年6月、蕭さんはビルマから撤退中、牛が踏んでできた水溜りの雨水を飲んで赤痢とマラリアに罹った。一日に62回も下痢をした。前線の野戦病院で診察後、鉄道でバンコクの陸軍病院に後送されたが、病床もなく、さらにプノンペンの兵団病院に後送された。そしてプノンペンの病床で天皇陛下の玉音放送を聴いた。
私は玉音放送を聴きながら何を考えたのかを聞いてみた。蕭さんは三つのことを考えたという。一つは、残念で悔しいということ。一つは、これで戦争が終わったということ。そして、もう一つが、願わくばこれ以降、戦争がないようにということだった。
今回は蕭さんの戦争体験を中心に約2時間半にわたってお話をうかがうことができた。記憶も鮮明で、話も力強く、92歳とは到底思えない若々しさがあるが、歳のせいか、同じ話を何度も繰り返してしまうことが多々あった。
「今になって考えてみたら、戦争は“馬鹿らしい”。本当に“馬鹿らしい”。」
「人を殺し、物を壊し、本当に“馬鹿らしい”。勝っても負けても戦争は意味がない。本当に“馬鹿らしい”。」
戦争体験者だからこそ、そして平和な時代も享受してきたからこそ知っている戦争の「馬鹿らしさ」。繰り返し発せられる蕭さんの言葉から「平和の尊さ」を痛感するとともに、戦争体験者の生の言葉をもっと聞き、少しでも戦争の悲惨さに想像を巡らすことのできる人間にならなければと決意を固くしたインタビューとなった。
最後に、長生きで元気に生きるにはどうすればいいか聞いてみた。
「善意の道を信じて歩くこと。求めようと思っても人間は求められない。自然のままに身を任すことです」。
笑いながらそう話す蕭さんと握手を交わし、再会を約束して、老人ホームを後にした。
(追記:本文中、「プノンペンの病床で天皇陛下の玉音放送を聴いた」とありますが、これは間違いです。本稿掲載後に蕭さんに取材を重ね、玉音放送の時にはすでに快復し、病院内にはいたものの、病床ではなかったとのことです。謹んでお詫び申し上げます。)
【関連文章】
平和を願う!自らの戦争体験を語り継ぐ台湾人老爺・蕭錦文さん(2019年4月10日、hibiki Culture Lab)
台湾を学ぶ会「杜祖健先生、台湾史を語る」の開催報告
10月15日(火)18時30分より、台北市松江路のIEAT松江會議中心にて、台湾在住作家の片倉佳史さんが主催する日台学びのイベント「杜祖健先生、台湾史を語る」が開催されました。平日の夜にもかかわらず、定員50名の会場がいっぱいになりました。
今回のゲスト講師は、毒性学及び生物・化学兵器の世界的権威である杜祖健(アンソニー・トゥー)・コロラド州立大学名誉教授。1930(昭和5)年に台北で生まれた杜先生は現在89歳です。
冒頭、主催者である「台湾を学ぶ会」代表の片倉佳史さんは「教科書には書いていない、切り口を変えたところから台湾の歩みを考えたい」と今回の学びのイベントの趣旨を説明しました。
講演の前半パートは、台湾で初めて医学の博士号を取得したお父様の杜聡明やお母様の生まれた名門「霧峰林家」のお話など、杜先生の発する言葉の一つ一つが貴重な「歴史的証言」でした。
例えば、杜聡明が台北帝大教授になった際、朝鮮総督府から台湾人を教授にしたことに対する「クレーム」があったというエピソードは、当時の時代背景を考えさせられるお話でした。
杜先生は、1994年6月27日の松本サリン事件や翌年3月20日の地下鉄サリン事件が発生した際、警察当局の捜査に協力してサリンの土壌からの検出法や分析法など情報を提供したり、指導にあたったりと、事件解明のきっかけを作った功績で知られています。2009年にはそのことが高く評価され旭日中綬章を受章されました。
また2011年12月14日には、オウム真理教教団内でサリン製造の中心人物であった中川智正死刑囚と初めての面会を果たし、以降、死刑執行までの間、計15回の面会を重ね、サリン事件の真相を追求しました。
今回の講演の後半パートでは、一連のサリン事件の際に日本の捜査に協力した経緯や中川氏から聞いたオウム真理教の教団内の実態など、杜先生でなければ語ることのできないお話をうかがうことができました。
他にも陳儀銃殺秘話やジョージ・カー先生との思い出、杜聡明による袁世凱暗殺計画などどれも記録として後世に残していくべきエピソードばかりでした。
講演終了後には参加者有志で杜先生を囲んでの懇親会が会場近くのお粥屋さんで行なわれました。
教科書には書かれていない生の証言をうかがうことができる貴重な機会を作ってくださった片倉佳史さんに改めて感謝申し上げます。
こうした証言を記録としてしっかりと書き留めていく必要性を痛感させられた有意義なイベントでした。
杜祖健(と・そけん)/Anthony T.Tu先生プロフィール
1930(昭和5)年8月12日、台北生まれ。父は台湾人初の医学博士号取得者として知られる杜聡明。台北市樺山小学校、台北一中を経て、国立台湾大学理学部。卒業後、渡米し、ノートルダム大学(修士)、スタンフォード大学(博士)。スタフォード大学、エール大学で生化学を修める。1967年よりコロラド州立大学で教鞭をとり、1998年から現在まで同大名誉教授。専門は蛇毒の毒物研究。毒性学、生物兵器及び化学兵器の世界的権威として知られる。オウム真理教による松本サリン事件および地下鉄サリン事件の際、日本の警察に協力し、事件解明の糸口を作った。サリンの検出法、分析法などの情報提供・指導を行い貢献。その功績が評価され、2009年に旭日中綬章受章。2011年12月14日、オウム真理教教団内でサリン製造の中心人物であった中川智正死刑囚と初めての面会を果たし、以降、刑執行までの間、計15回の面会を重ね、サリン事件の真相を追求した。著書に『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』(角川書店)ほか多数。編著に『沖縄と台湾を愛したジョージ・H・カー先生の思い出』(新星出版)。
中華民国(台湾)が欧州で唯一外交関係を有するバチカン
10月10日から陳建仁・副総統は、欧州で唯一外交関係を有するバチカンを訪問するための外遊に出発しました。13日にはフランシスコ法王と面会し、法王の台湾訪問を招請しました。
敬虔なカトリックとしても知られる陳建仁・副総統のバチカン訪問により台湾とバチカンの友好が確認されました。
一方、中国は昨年、バチカンと「歴史的和解」とも言える急接近を果たしました。
中華民国と外交関係を有する国に対し、あの手この手で接近し、台湾の国際空間の締め付けを図っている中国が、今後、バチカンに対して如何に攻勢をかけるか、要注目です。
昨年9月、中国とバチカンの間で中国における司教の任命権問題について、双方の臨時協議が暫定合意に達したことを受けて、一般財団法人自由アジアに寄稿した文章をこちらに転載いたします。
中国とバチカンが急接近へ、台湾の「現状維持」はいかに(2018年9月26日、一般財団法人自由アジア協会寄稿)
9月22日、中国外交部は王超副部長がキリスト教カトリックの総本山であるバチカンの代表団と北京で会談し、中国における司教の任命権問題について、双方の臨時協議が暫定合意に達したことを発表した。暫定合意の詳細は明らかになっていないが、最大の懸案であった司教の任命権問題で一定の合意を得たことは双方の関係改善を象徴するものとして注目に値する。
これまで司教の任命権問題をめぐっては、任命権はローマ法王に帰属するとの立場であるバチカンに対し、中国は宗教の内政干渉を理由にそれに反発し、長年、双方は対立関係にあった。また中国とバチカンが1951年に国交を断絶した一方で、バチカンは1942年以来、一貫して中華民国との外交関係を維持してきた。中華民国にとってバチカンは欧州で唯一外交関係を有する国である。したがって今回の歴史的和解とも言える中国とバチカンの急接近は、台湾社会でも大きな関心を呼んでいる。
中国が暫定合意を発表した22日、中華民国外交部は声明を発表した。声明では今回の暫定合意が「中国のカトリック教会と世界の普遍的教会との融合、ひいては中国における信仰の自由促進につながることを期待している」とした上で、中国当局による国内のカトリック教徒に対する締め付けに懸念を示し、ローマ教皇庁が彼らを保護する対策を講じていくよう期待を表明した。加えて暫定合意は「中華民国とバチカンの76年目を迎えた国交関係を損ねるものではない」との認識を示し、10月中旬に政府訪問団を派遣することも明らかにした。表向きは福者パウロ6世教皇の列聖式への参加であるが、敬虔なカトリック教徒としても知られる陳建仁副総統を派遣する可能性も取り沙汰されており、国交関係維持の確認がなされるか注目される。
また暫定合意後、呉釗燮外交部長は自由時報の単独インタビューに応じている。そのなかで、外交部がバチカンの政策決定に携わる高官と恒常的に対話を続けていることを明らかにし、今回の暫定合意は「司教の任命に関わるものだけであり、台湾に関する議題や政治外交的意味合いは決してない」と強調した。また「台湾とバチカンの関係は非常に良好」との認識を示しつつも、一方で、今後の両国関係は「慎重だが悲観しない態度」で臨むとし、事態を厳粛に受け止めている様子も覗かせた。
近年、徐々に進展を見せてきた中国とバチカンの関係改善だが、今回の暫定合意はこれまで以上に双方の歩み寄りを加速させる契機となりそうである。そしてこの動きが単に中国政府が宗教政策を見直す機会になるか否かにとどまらず、中国が台湾を国際社会から孤立させるための圧力の一環として認識しておく必要がありそうだ。今後、中国とバチカンが国交樹立に向けて更に接近していく可能性も否定できず、中華民国とバチカンが外交関係を維持できるかも焦点となる。
蔡英文政権は対中政策として「現状維持」の方針を掲げている。しかし中国の圧力を前にいつまで現状が維持できるか、台湾は正念場を迎えている。そして台湾が維持すべき現状は日本の国益でもあるはずだ。今後の台湾海峡からますます目が離せない。